自分のファッションにこだわる人ほど、他人のファッションが気になる?それってなんで?
どーもナル男です。
今日はちょっといつもと趣向を変えて
数年前に読んだこの本からインスピレーションをもらって、ファッションというものを考えてみたいっと思います。
鷲田清一「てつがくを着て、まちを歩こう」
哲学、などと言われると抵抗のある人も多いでしょう。
ナル男もそうでした。
大学院では実学の最たるようなものを学んでいたので、哲学なんぞ暇人の余興くらいに思っていましたし、何なら嫌悪感すらあったかもしれません。
かっこつけんなよと(よく言えたものです)。
しかしこの本は、私の興味のある「ファッション」という分野について、地に足の付いた、心にストンと落ちてくる考察を与えてくれており、自分の中から湧き出てくる「俺もそう思う」「でも俺はこうも思う」という議論欲のようなものを掻き立てられたのを覚えています。
空中に漂っている抽象的なもの、というイメージのある哲学が、具体的な地平に降りてきて、また空中に戻るような。
「具体と抽象の行ったり来たり」という、まさに実践的な学問のように捉えられて、とても興味深いものに感じられました。
今日からそんな本を手がかりに「なぜ人は、他人のファッションが気になるのか?」をポツポツと考えてみたいと思います。
特にメンズでは、流行に対する距離感をどうして良いのかわからないという人もいるでしょうし、「俺は絶対に流行りには乗らない」なんて意固地になっている人もいるでしょう。
そこを、ちょっとだけ抽象的に考えてみたいのです。
それを「哲学」と呼ぶかは別として、自分の具体的ファッションにもきっと返ってくるものがあると思うのです。
続きが生まれるか、生まれないかは分かりませんが、とりあえず連載形式ということにしました。
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流行の捉え方や距離感、あなたはどこに属している?
鷲田清一氏は流行に対する反応で、人々をこう分類します。
みんなとほとんど同じだけれどちょっとだけ違うのがいいーファッションの真ん中にいるのはこういう集団である
横並びというのがなによりきらい、マジョリティからいつも一定距離をとっていたいから、みんながしているのとは違う未知のスタイルに手を出したがるーというのが先端の人だ
反対に、あるファッションが社会に完全に定着してふつうになるまで腰をあげないひとは、遅れすぎると逆に目立ってしまうので、遅れ過ぎないうちに、こそこそっと腰を上げることになる。
本当はこういうひとがいちばん流行に弱いのだろう。
(鷲田清一「てつがくを着て、まちを歩こう」より引用)
皆さんはどの「ひと」でしょうか?
どのグループに所属しているでしょうか?
これを正確に判断するのはなかなか難しいのではないでしょうか?
出来れば、流行に適度な距離感を保ちつつ、 自分らしさを大切にして、人にどう思われるか?よりも自分のやりたいファッション、自分の好きを貫きたい。
ファッション業界が推し進める流行のサイクルに惑わされたくない。
それでも、他人からどう見られるかはやっぱり気になるし、流行しているアイテムに「やっぱりアレ良いな」と思わされたり…「ちょっとこれはどうだろう…?」と思ってしまうアイテムも「流行っているから」の一言で背中を押されたり。
こういう風になかなか「自分」というものを貫けない。
でもこれってある意味自然なことではないでしょうか?
なぜなら1人の人間が、必ずしも一面的なモノの見方やスタンスを常に堅持しているわけではなく、サイコロのように多面的な立体がゴロンゴロンとその場その場で面を変えていると思うからです。
ひとに違いがあるとすれば、その面の数が、少ないか多いかくらいでしょう。
「ひとと違う方がいい」「マジョリティから一定の距離を取りたい」「流行から遅れ過ぎて悪目立ちしたくない」
これらの思考を、時と場合によってコロコロと変えるのが人間ではないのでしょうか?
そしてみんなどこか、流行を意識してしまっている。
それは流行から距離を取りたい、と思っている人でもです。
流行が何なのか意識しなければ、距離感も分かりませんからね。
もちろんどの面が強いか?というのがその人の個性を決定づけると思いますし、鷲田清一氏のグルーピングが全く無意味だとかは思いません。
流行への距離感の違い、という発想はなかなかおもしろく、コチラ側も色々な発想を掘り出されますね。
自分自身のスタンスが定まらなくても、自分自身としてはどこにいたいのか?考えてみると良いかもしれません。
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