「チェスターコート多すぎ問題」について考えてみたい。流行にはどこまで乗るべきか?もっと「崩し」て良い?
確か昨年クリスマスの頃だったか、「チェスターコート着てるやつ多すぎだろ!」みたいな言葉をネット上で複数目にしました。
ここ数年の風物詩みたいなものですが、流行とどう付き合っていくべきか?というファッションの永遠の課題を考えてみたいと思います。
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流行のアイテム、流行の合わせ方はどんな時代にもある、そしてそれは変動する
当たり前ですが、流行のアイテムや流行の着こなしというのは時代時代に必ずあります。
昨今のチェスターコートやMA-1など「皆着ている気がする(実際はそうでもないんですが)」と言われるような流行アイテムや着こなしって時代時代に必ずあるものです。
例えば数年前はメンズのコートと言えばPコートのシェアが今のチェスターコートくらいありました。
http://www.selectsquare.com/shop/beautyandyouth/goods/3006626
一方でチェスターコートを着ている人はほとんどいませんでしたし、MA-1などはどちらかというと若い世代というよりは「大人」のファッションでした。
コートで言うとアイテムは少しずつ変わるものの、しばらくショート丈で推移していたトレンドが、一気に数年前にロング丈に振れたのです。
パンツ・ボトムスはディオール・オムがスキニーシルエットを流行らせてから10年くらいトレンドであり続けていますが「スソの形」はやはり変化してきました。
クシュクシュっとアコーディオンのようにスソを溜めるスタイルから、ブーツカットの変形バージョンである「シューカット」、そして現在はほとんど溜まりを作らないアンクルカットなど…。
細かいながらも、現在はシューカットのアイテム供給がほぼ無いということを考えても
確実に変化はあると言えるでしょう。
http://www.selectsquare.com/shop/luis/goods/3195945
「ショート丈」から「ロング丈」など大枠での激変もあれば、パンツのスソのような細かい部分でのちょっとした変動も確かにあるんです。
Tシャツやカットソー、ニットの「ネック」もそうですね。
トレンドと付き合いたくない!という生き方は難しい
大枠か、それとも部分的な細かい変動か、という違いはあるものの、確実にあるトレンドの変化。
このような変化に付き合いたくない、自分らしいファッションを貫きたい、と言い出しても、難しいというのが現状です。
日本は自己主張を許さない社会だとか、生きづらいよね~という話をしたいわけではありません。
例えば私は、前述したシューカット(ブーツカットの派生バージョン、足首までは補足、そこから急激にスソを広げ、靴に覆いかぶさるように展開するボトムスのこと)は、靴とボトムスとの一体感をもたらし、コーディネートをよりまとまりのあるものに見せる非常に合理的なアイテムだと未だに思っています。
出典 http://www.twelve0492233757.com/staffblog/2014/09/stabilizer-gnz-2014-15aw.html
しかし、今このアイテムを穿きたい!と思っても、新品でこのアイテムを出してくれているブランドは限られており、その中から選ばなくてはなりません。
結果古着も選択肢に入れつつ選ばなければならないなど、選択肢が絞られる、あるいは難易度が高くなります。
ことファッションにおいて、自由に選びたいと思って非トレンドを選択すると、より不自由になるという矛盾に必ずぶち当たります。
トレンドから「定番アイテム」へと昇華して選択肢が確保されれば良いのですが、そうではないなら、なかなかトレンドに縛られずにファッションを選択することは難しくなってきます。
定式化・定型化の罠
今チェスターコートを着ている人で、「チェスターコートというアイテムをどうしても着たくて着ている」という人は少ないはずです。
色々な理由はあるでしょうが、ファッションは完全に自由には選べず、一般的に広い意味でのトレンドから選択するしかないことを考えると、結局は「チェスターコートが流行りだから着ている」ということになると思います。
でも、それで良いんです。
ファッションとは、今そこにあるものしか選ぶことは出来ないのですから。
ファッションとは完全に自由なものである、というのは完全に嘘です。
需要のない服というのは、新しく生まれてきませんし、出回りません。
しかし一方で、トレンドというのは定式化・定型化を生み出しやすいのも事実です。
流行りのアイテムというのは最初は誰しも合わせ方を不安に思うはずで、「こう合わせると良い」という合わせ方の一例が「正解」であるかのように広まってしまう結果、定式化・定型化されてしまうのです。
例えばチェスターコートは、胸元や首元が目立つ構造になっているのは以前解説しました。
そしてインナーをカバーする力が弱い。
そこで胸元や首元を、同時期にトレンドとなったアイテム、例えばタートルネックやボリューミーなスヌードによって隠してしまうという提案が一気に広まりました
その組み合わせがまるで正解のようになって、「量産型」のような言われ方をしてしまうようになってしまったわけなんです。
実はこれ正解でもなんでもありません。
きちんと自分の身体に合った、シルエットの良いチェスターコートを着ているなら、別に首元が寂しくてもそんなに不自然な格好にはなりません。
出典 http://zozo.jp/shop/studious/goods-sale/14809173/?did=31836930
むしろ今はカットソーやニットにチェスターコートをふわっと羽織っている、というスタイルのほうがほどよく気が抜けていて良く見えます。
かといってタートルネックとの組み合わせが不正解となったわけでもありません。
ネック部分が小ぶりなタートルネックであれば、 そこまでタートルネックが突出して見えることもないでしょう。
http://www.selectsquare.com/shop/journalstandard/goods/3066473
私は「着こなし」に頼りすぎる定式・定型化したファッション指南があまり好きではなく、もっと自由に組み合わせてしまっていいと思っています。
アイテムを選ぶ段階で自分の身体に合った、シルエットの良いアイテムを選んでさえいれば、こうであるべき、という着こなし論に頼らなくてもある程度サマになると思っています。
要はどこの段階で頑張るか?という問題なのですが、私の場合それはアイテムを選ぶ段階ということなのです。
自分を振り返ってみても、このアイテムはちょっと~~なところに不満があるけど、着こなしでカバーしよう、などと安易に妥協すると、結局短期で手放すことになることが多かったように思いますね。
愛着も持ちにくいですし。
もちろんあとの組み合わせは自由に、といってもアイテムが供給される段階でトレンドに左右されるわけですから、完全な自由は無いのですが、アイテムをきちっと選ぶと、あとはその組み合わせにはある程度の自由が確保されます。
アイテム選びはシビアに、着こなしはラフに。
このようなスタイルが好きですね。
トレンドの組み合わせを少しだけ崩す、ズラしてみる
例えばさきほど例に出したタートルネックも、チェスターコートと組み合わせるとよりネックが突出して目立ってしまうというのも確かです(私自身はこの組み合わせが悪いとは思っていないんですけどね)。
ならばタートルネックが突出しないようにエリの目立つコートと組み合わせる、という崩し方もあります。
ステンカラーコートやフードコートと合わせるなどですね。
出典 http://zozo.jp/shop/studious/goods-sale/12165651/?did=27821916
出典 http://wear.jp/lawyeruminchu/8690719/
今出回っているチェスターコートは黒やネイビー(ちょっと変えてもキャメルなど)が多いですがカーキやオリーブを選んでみるとか。
http://www.selectsquare.com/shop/journalstandard/goods/3023420
トレンドなんだけれど、ほんのちょっとだけ「崩す」「ズラす」。
このことを意識するだけで、定式化や定型化から少しだけ逃れられるかもしれません。
アパレル関係やサロン関係者と「流行」について論議することもあるのですが、やはり流行っていうのは「ちょっとずつズレ」ていくことで変動していくのだけれど、今は明確な「次」が見当たらない時期に差し掛かっているようです。
既存のトレンドの中で少しずつズラして、手探りに「次」を探しているような状況なんですよね。
別に消費者が「流行の先の先」などは考える必要はないし、芸能人ではないので、先鋭的な選択をするべきとも思いません。
ただ、トレンド「ド真ん中」の「トレンドの詰め合わせ」のような格好になってしまうと、一定数の人に良く思われないというのも事実でしょう。
流行との距離感を上手く測れないと見られかねません。
だからトレンドのド真ん中ではなく「少しズラす」ということが重要になってくるのです。
一度量産されてしまうくらいトレンドのスタイルが固まってきたら、それをズラして、どんどん「崩し」ていけば良いのです。
「崩す」は「遊ぶ」と言い換えても良いですね。
そうすることによって、トレンドに縛られるわけでも、トレンドを毛嫌いするわけでもない、トレンドとの適切な距離感を生み出せるのではないでしょうか。
「他人を気にするな」は正しいのか?
流行批判、トレンド批判にいつも思うのは「他人の意向を気にしているみたいで自主性がない」とか「自分がない」といった批判って果たしてどこまで正しのか?ということなんです。
そもそも量産型だと批判されたから変える、というのはそれこそ自己がないとも言えるわけで。
もちろん批判的意見に耳を貸すな、と言っているわけではないんです。
批判的意見には傾聴に値するものが多々あるのは確かで、自分が本当にそのとおりだと思うなら、反省したり取り入れたりすれば良いんです。
ファッションなんて「トレンド」方向にしても「トレンドなんて関係なく自分が好きだから」という方向にしても、ちょっとでも「カッコいいと思う」から取り入れているわけです。
つまりちょっとでもそこに違和感を覚えたなら、誰に断ることなく止めていいんです。
他人を言い訳にしちゃあいけない。
今は色々なSNSがありますが、インスタやフェイスブックはどちらかと言うと肯定文化、「いいね」文化です。「WEAR」とかもそうかな。
Twitterは肯定・否定半々くらい。
いいね文化的なところもあるし、喧々諤々の議論を戦わせている側面もあるかな?くらいに私には見えています。
SNSではないですが、2ちゃんねるなどになると否定寄りの文化です。
「論破」文化、とも言えます。
それぞれの文化には馴染みやすい思想というのがあって、匿名性が高く、否定寄りの文化だと、社会的文脈からは切り離された「独立的自己観」、いわゆる欧米的な自己観と馴染みやすい。
「他人の意向を気にしているみたいで自主性がない」とか「自分がない」とかいった批判がリアルよりも出やすいんですね。
そういう考え方が馴染みやすいんです。
いいね文化だと、個人の自己は他者や状況といった社会的文脈と強く結びついて、影響を受けやすい「相互強調的自己観」、いわゆる日本的な個人観と馴染みやすいんです(少なくとも日本においては)。
2ちゃんねるが修羅の世界というわけでもないし、いいね文化が優しい世界というわけでもありません。
ただ、これらの文脈を考えずに、それぞれの思想をもろに受け取ってしまうと、もうわけがわからなくなります。
僕らはいつも日本的な個人、いわば実名アカウントというものを背負って生きているのに、突然独立した自己観を持ちやすい2ちゃんねるや一部のツイートとかを見てしまうとショックを受けてしまう人が多いんですね。
まるでそれが絶対の正解みたいに見えてしまうかもしれません。
過剰反応だったりするんですよ。
このように2ちゃんねるを真に受ければ、批判されていないファッションというものは無いですから、着るものが無くなりますし、インスタやFBを基準にしても常に他人の視線に恐怖を覚え続けることになるでしょう(「視線恐怖」と言います)。
もちろんTwitterが一番中道で正しい、なんて言う気もさらさらないですよ。
「普通とそれほど離れず、でも普通とは違っていたい(出来れば普通より上に行きたい)」というある種ワガママな願望は共通だったりすると思うんですよ、どこでもね。
その表現方法が時と場合、与えられた条件によって違ったりするだけなんです。
その批判はどういう文脈や文化を元に発せられたのか、それにどこまで付き合うべきなのか?というのは常に考慮に入れておくといいでしょう。
別に「確固たる自分」なんて持たなくていいけれど、そういったことにちょっと思考を巡らせてみると、トレンドとの付き合い方も気楽になれるかもしれません。
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