機能的にはまだOKだけれど、ファッションとしてはアウトというのが、この、モード社会の厳しいルール…なぜそうなるのか?
どーもナル男です。
今日もちょっとファッションについて哲学っぽく考えていきたいと思います。
流行の不思議
どれくらい、共通認識を持ってもらえるか不安なのですが、20代後半くらいから上の方は、2年前くらいから流行った「カーディガンのプロデューサー巻き」に違和感を覚えたのではないでしょうか?
出典 http://item.rakuten.co.jp/ash-store/00759/
「え?石田純一のアレ!?」と。
カーディガンのプロデューサー巻きといえば石田純一ですから。
まあ石田純一さんは、カッコいいおじさまですし、石田純一さんがやってるからダサい、というわけでは全然ないのですが。
そもそも「プロデューサー巻き」という名称自体が「TV番組のプロデューサー」のアイコンみたいなもので、それは「時代遅れのヘンテコファッション」みたいな意味で、軽くお笑い的に使われていたわけです。
それが正々堂々、ファッション的に流行している、というのを目にした時には、「いくら流行が周ってるからって…」と思ってしまった方も多いのではないでしょうか。
しかし、不思議なもので、おそらく「プロデューサー巻きはダサい」と思い込んでいた人々の何割かも、あっさりとプロデューサー巻きを取り入れてしまったのです。
何故か?プロデューサー巻きに何か新たな効能が発見されたからではありません。
流行っているから、取り入れたのです。
クラッチバッグも当初は、野球選手が契約更改の時に持っていたり、飲食店経営者が持っているイメージがある、時代遅れの「セカンドバッグ」を思わせて相当違和感があったはずですが、今ではすっかり「流行っているから」の一言で、多くの人が持っています。
「ちょっとそこらへんに出かけるときに、クラッチバッグってちょうど良いんだよ、手ぶらだと色々困るし」などといくらでも合理的な理由をつけることは出来ます。
しかし、彼らがクラッチバッグを持った理由は、そのような合理的な理由だけではないでしょう。
「流行っているから、持てる」のです。
そんなに便利なものなら、流行っていない時でも持っている人はもっといてもおかしくなかったはずだからです。
(大学生が、大学名のプリントされた生協で売っているような文房具としてのクラッチバッグを持っているのはありました。もともと機能的ではあったとは思いますが、きちんとした鞄として持っていた人はほとんどいなかったはずです。)
便利な物、機能的な物だから流行った、という「理」は、ことファッションに関しては当てはまらないことが多いと思います。
これが流行の不思議なところです。
流行っている理由は、流行っているから、なのです。
※なんかナル男がこれらの流行をディスっているように見えるかもしれませんがそうではありません笑
「流行遅れ」の服が着れなくなるのはなぜか?
では逆に、流行に遅れた服って、なぜ着れなくなるのでしょうか?
例えば今、2016年1月現在、メンズでブーツカットのパンツを穿いている人はほとんどいません。(数年後流行っているかもしれないので念のため)
かつては「街を歩けばみんなブーツカット」というくらい大流行したことのあるボトムスらしく、数年前にナイチチなどが流行った時プチ復活しました。
(その時はブーツカットの亜流、取り入れやすい「シューカット」がメインでしたが。)
しかし今現在では、ほとんど見ないボトムスでしょう。
持っていても、タンスの奥深くに眠っているのではないでしょうか?
ナル男はスタビライザーというデニムブランドが好きでそこのシューカットデニムをヘビロテしていました。
まだまだごく少数とはいえ穿いている人はどこかにいるはずです。
ですが、 今街で見かけることもほとんど無くなりました。
新製品もほとんど出ません。
機能的でないから?論理的に何か不正解な点があるから?
それは違うと思うのです。
ブーツカットのデニムは、パンツと靴とを一体化させ、地面すれすれまで生地で覆うことで脚を長く見せる。
こんな風にブーム当時は説明されていたはずです。
それは今最新の学説では、不正解となったのでしょうか?
確かに、裾を引きずってしまうほどのやりすぎブーツカットは、歩きにくいし汚いしで機能的ではありません。
しかしそこまでいかない、やり過ぎでないブーツカットなら相変わらず足長効果はあるでしょうし、ブーツと合わせるなら、「はき口」を覆い隠してくれる分、スキニーをブーツに合わせるよりも相性が良いなどの「合理的」説明も今でも出来るはずです。
機能的でなかったり、論理的に不正解な点があるから人々はブーツカットを穿かなくなったわけではありません。
なぜブーツカットは穿かれなくなったのか?そこに答えを出すことが出来るとすれば
「流行っていないから」、みんな穿いていないのです。
「流行っているから、流行っている」
「流行っていないから、流行っていない」
という、トートロジー(論理循環)のような現象。
なぜこうなるのか?考えてみたいと思います。
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流行=集団移動
鷲田清一「てつがくを着て、まちを歩こう」。
前回はこの本の中で、「流行に対する距離感で、『ひと』はグルーピングできる」という記述を取り上げました。
そのつづきがこちらです。
みんなと同じじゃないと不安だけれど、みんなと全く同じだともっと不安だ、そういう人たちを核に、社会の中の人間はゆっくりと集団移動してゆく。
同時に、こうして服というのは、まだ着られるのにもう着られないものになる。
服だけでなく、自動車でも歌でも鞄でも、機能的にはまだOKだけれど、ファッションとしてはアウトというのが、この、モード社会の厳しいルールである。
まだ着られるけれどもう着られない、そういうルールの外に出ることを、ひとはなぜ不安がるのだろうか。
(鷲田清一「てつがくを着て、まちを歩こう」より引用)
流行を集団移動と捉えるとかなりイメージが持ちやすいですね。
でもそれだけでは流行の正体は分かりません。
確固たる自分、とやらを持つと流行に惑わされない?
岩崎武雄著「正しく考えるために」の中にもこんな一節があります。
流行とはまことにふしぎなものです。流行にしたがわねばらない理由はもとより少しも存在しません。
しかしそれにもかかわらず、世人は流行を追います。
それは「ひと」がするから自分もする、ということにほかなりません。
岩崎武雄著「正しく考えるために」
その通り、流行とは不思議なものです。
そして岩崎武雄氏は、この本の中で、人が流行にしたがうのは、自分自身の確固たる考えがなく、世間一般の考えにわけもなく同調してしまうから、という趣旨のことを述べています。
確かに、流行を知ったあと、我々は、ただ流行をそのまま自動的に取り入れるのではなく、流行について自分自身で考えることが必要なのかもしれません。
でもそれは、答えであって答えで無い気もするのです。
自分自身の確固たる考えって一体何なのか?それがあれば本当に我々は流行から逃れられるのか?
それが知りたいのに。
みんな「自分」がわからない?
また最初の鷲田清一の著作に戻ります。
まだ着られるけれどもう着られない、そういうルールの外に出ることを、ひとはなぜ不安がるのだろうか。の答えとして、鷲田氏はこう理由づけます。
それぞれのセルフ・イメージというもので、ともに支えあっているから、というのが考えられるいちばん大きな理由だ。
じぶんってどういう人間か、それに確信を持って答えることのできるひとなど、おそらく周囲にいないだろう。
(中略)
つまり、じぶんのことは、みんなほんとによくわからないのだ。
だから、何が似合うかも他人にいってもらわないとよくわからない。
服を試着したとき、「これ、わたしに合うかしら」とまわりのだれかに問いかけないではいられないのも、そのためだ。
よく考えてみれば、そもそもじぶんのからだがよく見えない。それを毎日他人にさらして生きているのだから、こんな無防備なことはない。
誤解や曲解にさらされることもある。
そこで、おたがいがより確かなセルフ・イメージがもてるようにたがいにイメージをあらかじめ微調整しあう。
みんなお互いを鏡にしてそこに自分を映すわけだ。
セルフ・イメージを支え合うのである。
この一節はかなり核心を突いていると思うのです。
ナル男は、試着した後にこれ自分に似合うかな?と実際に他人に意見を求めることはないのでそこはあれですが笑
(店員さんの「お似合いですよ(にっこり)」には「でしょうね!(ドヤっ)」と思っているタイプですので。)
でも、きっと人は知らずしらずのうちに
「心の中の他人」に問いかけていると思うのです。
「これ変じゃないよね?」「大丈夫だよね?」と。
流行という安全圏の中で、人は冒険ができる
流行は保険である
鷲田氏は続けます。
ニーチェという哲学者は「各人にとってはじぶん自身がもっとも遠い者である」と書いたが、これこそわたしたちのファッションの根にある共通感情ではないだろうか。
そんな「じぶん探し」は、きっと果てしなく続くことだろう。
そのとき、ひとは流行の服装を一種の保険のようなものにしている。
というのも、みんなとだいたい同じような服を着ておいて、そのなかでちょっとした冒険をしていろいろイメージを調整するというのが、ファッションのやり口だからだ。
ちょっと目立とうと背伸びもできるし、派手目にコーディネイトもできるが、みんなのなかに隠れようしてカムフラージュも出来る。
流行というものがなくて、みんなが本当に自分の考えとやらに基づいた服を着ていたら…。
多分、ナル男もたちまち流行や定番、「スタンダード」などという概念との距離感が全くわからなくなって露頭に迷うような気もします。
流行があるから、そこからの距離感を調整することによって、自分を形作れる。
自分がダサいのか、ダサくないのかも、何らかの基準なしではわからなくなるのです。
そしてそれは、 ファッション誌や街行く人々の流行、ショップに今並んでいる商品など大きな意味での流行が基準となってくれるのです。
冒頭のブーツカットを今穿くとしましょう。
きっと不安になる人が多いはずです。
流行という鏡に今は映っていないからです。
実際の鏡にはきちんと映っています。見えています。
でも流行という鏡には映っていない。
だから見えない。だから怖い。
よくわからない。
やめとこう。
と多くの人はなるはずです。
多少脚が長く見えたり、ブーツのはき口と合う程度のメリットではこの恐怖には打ち勝てません。
この恐怖はダサい、という評価に結びつきます。
違う!絶対的にダサいものはダサいんだよ!という人も、ダサいとされていたプロデューサー巻きがあんなに流行ったのを最近目にしたではありませんか?
恐怖心からくるダサいという感情は絶対的なものではないのです。
周りに左右される相対的なものです。
おそらく数年後にはまたメンズでもブーツカットが流行るでしょう。
皆が穿くレベルの大流行にはならないまでもプチ流行くらいは来るはずです。
その時業界人は「足長効果最強はやっぱりブーツカット、日本人は足の長さにコンプレックスを持つ人が多いですから、流行も当然なのです」のような説明をしてくると思いますが、ブーツカットが流行るとしたらそんな理由が一番ではないのです。
みんなが穿いているから穿く、流行っているから流行る、のです。
自分の外見は常に他人に晒されている、という恐怖
鷲田氏の言うとおり私たちは自分でもよく見えない「じぶんのからだ」というものを無防備に他人に晒し続けており、誤解や曲解をされたくなくて不安なのです。
これは服装や髪型など外見的ファッションに顕著でしょう。
例えば音楽であれば、どれだけ流行とは程遠いものを聴いていようが、「何聴いてるんだよ?」と突然ヘッドホンを奪いとって知ろうとしてくる者は(通常)いません。
「お前が好きなアイドルはどれだ?言え!」と包丁を突き付けて聞いてくるような輩も(通常は)いません。
しかし外見的ファッションに関しては常に他人に晒され続けているのです。
それも自分から晒しているのです。
こんな怖いことってありますか!?
だから「みんなもしているから大丈夫」という安心感が欲しくて欲しくて仕方ないのです。
逆に、みんながしていれば、今までとちょっと変わったファッションだってできちゃいます。
冒頭のカーディガンの肩がけやクラッチバッグがそうです。
みんながしているから、安心なのです。
安心感、なので、別に持たなくていい人は持たなくていい概念なのですが、なかなかそれは出来ません。
人間は安心したくてたまらない生き物です。
そしてそれは決して悪いことでもないと思います。
逆に、これを持っていないことも別に悪いことではないはずです。
定番まで行けば、安心
鷲田氏の言説に付け加えるとすれば、鷲田氏の言う流行の中にいれば安全圏みたいな話は、「定番スタイル」や「定番品」も含む気がするのです。
「定番」まで昇華されてしまえば、もはや「流行っていないから不安」という恐怖からは逃れられます。
よく
「最近チェスターコート流行ってるな」に対して
「チェスターコートは流行りっていうか定番だろ?」
みたいなよくわからない返しをする人がいますが、
定番も「廃れてはいない」という意味では「流行っている」
つまり広義の流行と捉えて良いと思います。
そして主に人から誤解・曲解をされたくないがゆえにとられる「無難」な選択、は定番から採られることが多いと思います。
流行を超えて、「定番」まで昇華されるのか?
例えば「ショートPコート」などは、一過性の流行から今では完全に定番と化しました。
果たして今の流行アイテムは、定番になれず、廃れていくのか…。
鷲田氏はこの節をこう締めくくります。
恐怖に囚われた家畜は群れのなかへ、なかへと入ろうとするらしいが、強烈に画一的なファッションの流行をみていると、ふとそんな情景を思い起こしてしまう。
「流行り廃りを気にしすぎる姿勢」は時として、「流行にまんま乗っかっているだけ」「自分がない」などと流行遅れ以上のバッシングを受けますが、もしかしたらそうした恐怖心がミエミエであるがゆえに、非難されているのかもしれません。
そしてこれは男性に特に強い傾向のような気がしますね。
恐怖心に囚われて群れの中へ中へ逃げ込むと「男のくせに臆病者!」と非難される。
男ってのは辛いものです…。
鷲田清一「てつがくを着て、まちを歩こう」
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